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西行桜(さいぎょうざくら)
京都西山 嵯峨の奥、西行法師の庵室の桜は、今を盛りと咲いています。そこへ都下京の者達が花見にやって来ます。西行は一人静かに花を楽しみたかったのですが、折角見に来た者達を追い返すわけにもいかず、中へ招き入れることにします。そこで「花を見ようと沢山の人が来るのだけが桜の欠点だ」という歌を詠み、花の木陰にまどろみます。すると、その西行の夢の中へ、老人が語りかけてきます。「桜の欠点とは何なのでしょうか」、との詰問に対し、「浮世を離れた山住まいなのに群集がわずらわしい」と詠んだのです、と答えます。しかし老人は、「ここを浮世と見るのも、浮世を離れた山と見るのも、その人の心次第で、花に欠点はないのです」という。さすがに道理であると西行は納得してしまいます。老人は桜の精だったのです。西行と出会えたことを喜び、花の名所を語り舞います。近衛殿・千本・毘沙門堂・黒谷・下河原・華頂山・比叡山・双林寺・清水寺・音羽山、そして、ここ嵐山。桜の精は名残を惜しみますが、やがて夜は明け行き、西行の夢は覚めるのです。そこに残ったのは、ただ雪の様に散り敷かれた花だけだったのです。
曲の終盤、「待てしばし 待てしばし 夜はまだ深きぞ」と自分に言い聞かせるように、老桜の精はつぶやきます。しかし時は待ってくれません。次第に夜はしらしらと明けて行きます。それでも「白むは花の陰で、よそはまだ暗い」と、なおも舞い続けようとする桜の精。
老いても心の花を残している証なのでしょうか。時を知らせる後夜の鐘が聞こえずとも、まさに時が刻まれていくのが見えるようです。しかもその時の流れ方は、人によってゆったりであったり、あっという間であったりするのではないでしょうか。
